Critical Care Research Institute

きっかけはアルバイト

40数年前の大学時代

40数年前大学生だった私は、友人の紹介である大学病院の手術室でアルバイトをしていた時期があります(最近、Twitterでわたしが中材でアルバイトしていたという情報を流していた方がいましたので、一応訂正し誤解を解いておきました)。

メインは器械出し(いわゆる直接介助)でした。そのうちに、とても人がよさそうな東北出身の青年に見えたかはわかりませんが、外科の医師2人から「放課後の実験を手伝ってくれないか」という依頼を受けました。

その実験は、犬をモデルとした上腸間膜動脈の虚血とエンドトキシンショックに関連した病態を解明することが目的だったと思います。週2-3日程度、全身麻酔下でスワンガンツカテーテルから得られる血行動態のモニタリングデータの収集をはじめ、ワンちゃんへ心からの感謝と哀悼を捧げつつの後片付けまで、さまざまなことを経験しました。

熱傷治療の助手

また、バイトでは形成外科医たちが行う広範囲深達性熱傷患者(重症熱傷患者)のデブリードマン、植皮術の手術の器械出しを担当することが多くありました。そうこうするうちに、お世話になった形成外科の教授が「道又くん、私は日本に熱傷治療士をつくりたい!」というわけです。

それは壮大な構想を抱き、私を形成外科医局の熱傷治療の助手として雇用しました。私は「人生、時には長いものには巻かれろ」的なスタンスを試してみることに失敗はない(好きな本の中の1フレーズ)的な感覚も持ち合わせていたので、何となく見様見真似で初めて経験する仕事を始めることになりました。

その内容は、総じていえば熱傷患者のケアです。それ以外は、実験助手や外部での手術の器械出しやら何やら、とても多くのことを経験させていただきました。

看護師の道を歩むきっかけ

ということで、アメリカで活躍する熱傷治療を専門とする治療士(バーン・ケア・テクニシャン)を日本でも活動できる仕組みをつくろうという構想は「道又くん、まずは看護学校へ行きなさいよ。」となり、これが看護師の道を歩むきっかけとなったわけです。

重症熱傷患者の激しい生体反応とそのすごさに驚き、同時に熱傷の長期ケアに耐える患者には何としても回復してほしいと強固に思ったものです。今考えてみると、これがクリティカルケア看護の入口だったのかもしれません。いやきっとそうだったのでしょう。

しかし、好きな本の1フレーズにある「目標に関するきみの問題は、世の中はきみの目標が達成されるまで、じーっと待っていたりしないということだよ。」ということにうなずき、いま私に巡ってきたものをありがたく、とりあえずは貪り食らってみようと思ったわけなのです。

さて、熱傷治療士を目指し、熱傷治療の補助や実験助手をしながら看護学校に通う青年は、いつの間にか准看護師、看護師の計5年間のおつとめを、数多くの人々のお世話になりながら無事に終わることができました。

YM

その後へ続く

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